昭和五十四年十月十日 朝の御理解
御理解第九節
「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えて居れ。世界はわが心にあるぞ。」
昨日、研修の時に話した事ですけど、今ここで修行しておる奥さんが一、二回昨日も尋ねて見えたらしい。ところが表の入り口まで見えて中に入って来られない。それは宗旨が違うからとこういうのです。
奥さんはカトリック教の御信者さんらしいです。カトリックでは、他の神様やら仏様を拝んではならない。その一つの厳しい戒律のようなものがあるらしいですね。それで私は、ほうカトリックというのは、ま西洋の創価学会のようなもんばいねと言うて話した事でしたけれども、創価学会なんかがやっぱりそうですもんね。他のはもう全部邪教だ、邪宗だというふうにこう決めつけてあります。けども、本当にやっぱりそれを信ぜれれるという事は素晴らしい事ですけれども、信じれれるなら、信じれれるだけの一つのやはり教えの素晴らしさ。言うならばおかげの確かさといったようなものがなからなければならんのです。ただ言うておるだけではいけません。そういう意味で合楽教会も教団の中のま創価学会のようなもんじゃないだろうかね、て言うて話した事です、ね。
合楽の信心を昨日、或る方の手紙を読ませて頂いたんですけども、今ま大変不自由な所にその人がおられます。その方が合楽の信心をま少しかじって合楽を評しておられるのに、自分も他の金光教の教会に何回も参った事があったけども、合楽は全然金光教的な事は言われない。だから、金光教ではなくて合楽教だという意味の事がその手紙に書いてあった。まそういうようなふうにやっぱりその見たら見えるかもわかりませんですね。
確かにこの合楽に見えて合楽の話はなかなか難しいとか、一寸聞き付けないといったような所があるわけですけども、これは私としては本当に合楽の信心が全面的に教団の中にも入って、言うならば合楽理念を芯にしての金光教という事にならなければならないというふうに確信しとるわけです。そして今迄耳慣れない、言うならば金光教の信心を宗教以前の宗教であるというふうに申しましたりね。もうこればかりはね、合楽理念による他はないといったような特異な表現を致します、ね。
例えば、金光教でも随分助かって来ましたね。百年間の間にいろいろ助かって来ましたけれども、なら例えば、海外布教なら海外布教は合楽理念を以てする他なしと、言わざるを得ない事実があるという事です。
教団でも随分海外にも出ましたけれども、それはどこまでも日本人が対象としたところの金光教であった。今日の御理解でいくと、それこそ世界は和賀心にあり。金光大神のお広前は世界中であるぞというふうに教えてありますけれどもね。日本人の居る所だけでしか布教出来なかったというのが、過去百年の金光教であったのがね、南米布教に合楽が出らして頂いて半年足らずの間に、言うならば黒人も助かり、白人も助かる。あらゆる人種の人達が助かるような手立てが、それも末永先生の教会であるビリグイ教会だけではなくて、マットグロスンあたりまでも、それが及んでおるという事実から海外布教は、だから合楽理念を以てする他なしというふうに、ま言えるんじゃないかと。合楽の信心が、なぜ宗教以前の宗教かと、いや金光教は宗教以前の宗教かとね。言うならば因縁といい、または罪と言うて、勿論キリスト教または仏教を指したわけですけどもね。それによって因縁の為に苦しまなければならない。罪の為に助かる手立てがつかないと言うような宗教からね、言うならば十字架を十の字にしていけれる内容を持っておるのが合楽理念であり、金光様の天地金乃神様からお受けになられた難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれとおっしゃる。十字架を背負っておる人、因縁の為に苦しんで居る人を取り次ぎ助けてやってくれと。そこに言うならば観念的にすっきりしたおかげを頂いて、おかげの頂けれる手立てが合楽では説かれておる。それもその気になって頂こうとすれば、誰でも分かるし、また難しい宗教とは、兎に角陰惨なというか、暗い言うなら面が宗教には必ずあったね。
人の出来ないような、言うなら荒行をしたり、言うならば小さいカラの中に入ってしまって、あれを食べてはならん、これを飲んではならんといったような戒律すらがあるのである。
教祖金光大神は、そういう中にあって、人間が人間らしゅう人間が生神になっていけれる手立てを説かれた。けどもなら教団でもそこまでを説いて、過去の金光教に於いては説かなかったね。それを合楽によってそれを説かれつつあるのですから、やはり目新しい、目新しいければ違ったもののように言うのもま無理ない事なんだけども、合楽ではそれを実証しながら説いておるというところにです、言うならば合楽の本当の価値というものは、値打ちというものが、まあるわけですけれども、それをなら分からせようとする時に、はああっちも立派ですよ、こっちも立派ですよと言うとったんでは、その合楽の信心を伝えていく事が出来ない。こんなにも間違いのない、しかも実証までも見せながら聞かせて居る合楽の信心というものはね、悪口を言うわけじゃないけれども、本当の事は本当な事として言うていかなければ、もう世界の宗教全体が、言うならば結局宗教では本当の助かりは得られないといったような結果になるんだとね。
そこで、合楽で唱えておるところの合楽理念を以てすれば、どういう言うなら人でも助かる事が出来る手立て、為にはやはり、宗教以前の宗教であった、あるんだという事の確信を合楽の信奉者の方達は先ず実験実証して自分のものにしていかなければならないという事なんですね。まいつも言うように結局は合楽に御縁を頂いておる人達がね、おかげの実証をしていかなければならないという事になるのです。
私は今朝からお夢を頂いた。ある人がお茶を出して呉れた。そのお茶というのが梨の皮ですね。果物の梨です。梨の皮をむいて、それを日陰干しにして、それを刻んでお茶代わりにしておりますと、最近は一家中の者で兎に角合楽の御造営の為に、それこそ身を削り心を削りながら少しでも思い、真心を捧げたいというので、お茶をやめて言うなら廃物利用である、捨ててあった梨の皮をむいてそれを日陰干しにしてそれを茶にしてあるのですが、召し上がってみて下さいと私に言う訳。飲んでみると甘味があって美味しいんです。これはあんた美味しいじゃないの。それが私の方の姑親ですね、おばあちゃんは信心がありませんから、私がこんな事をしておりますと、何かこう鼻で笑ったような、どげなこってんすると言うごたふうに言うておられましたけども、実際御自分が召し上がってみてウンこりゃ美味しかばいというて、最近では来る人ごとにお客さんにあれば出さんの出さんのと言わっしゃるというお知らせであった、ね。
皆さんも、やはり本当に只こんくれな事じゃなくて、この真心というものはね、お釈迦様の経文の中にある、言うならばお話しの中にね、ライオンに助けられたオームがそのライオンの住んでおる山が山火事になった。その時に、ライオンの住んでおる山にそのオームが自分の身体を水をいっぱいつけて、そしてその燃え盛っておる山火事の上に行ってからこうやって水を落としたと言うのです。馬鹿げたようだけれども、それが真心だと仏教で説いてあるそうです。経文です。何とかというお経の中にね。だから、真心というものはね、それがね例えば、んなら梨の皮をむいてその梨の皮を言うならばお茶に工夫してお茶で頂いて、そしてそこにならお茶を買いよったお金を貯めていくといったような事は、それこそ微々たるものかも分からないけれども、そうせずにはおれないそういう人が千にも万にもなっていくという時に私は本当の真心の結果というのはそういう事ではなかろうかと思うね。
だから、そういう思い、真心があればどういう中からでも出来るという事を思うんです。私は、それからまた次にその事から感じた事は梨という事は空しゅうする事。自分の身を皮を剥ぐという事は削ってからというような意味であるという事。しかも信心のないそのおばあちゃんまでが、人に所謂示現活動が出来ておるという事。
私はまだ参った事はなかばってん、家の嫁達が参るが、それは又素晴らしい信心のごたるですばい。いっちょ飲んでみなさらんの、一偏参ってみなさらんのと言うておるようなものじゃなかろうかと私は思うです。
梨のその私はお夢の中からそういうふうに感じたんですね。そこから私は合楽理念の実験という事はそういう事から始めなければならないと思うですね。そこから実証が生まれてくる。信心のなかったお婆ちゃんにまで、そのお婆ちゃんが又信心のない人達にまでも、すすめて行けれるような内容を持っておらなければならないと思うですね。
その内容が合楽理念の中にはあるんですね。それをなら自分が実験せずしては人に伝える事も出来ないじゃなしですかね。
次にはその事をあ今頂いたお夢はどんなこったっちゃろかと、今思ったような事を思っておりましたら、おみかんを目の前に見せて頂いた。ミカンです。まだ今の青いま少しうれたようなミカンです。それでミカンを出されて例えばミカンをむいて食べたというだけではなくて、目の前に出されたもの、それを御神意と頂くべきだという事です。
ここでは、成り行きを尊ぶ、大事にする。起きて来る問題をを神様の私に求め給うところの信心であり修行であり、この事によって何か分かって呉れよという御神意であるとわからしてもらう時に、起きて来る出来事をお粗末御無礼には出来ません。それを丁重に頂いていくという姿勢を作らなければなりません。
例えば、食べ物一つでもあなたの前に現れたね、皆さんもよく言いますね、今日はお酒を頂いたりお野菜を頂いたり、そこから御神意を悟らせて頂く、分からせてもらうといったような、言うならば行き方をなさる方が沢山合楽ではあります。そういうところから、言うならばその合楽的一つの天地のリズムを聞き取る事が出来ます。
はあ、ミカンを私に食べろと言いよんなさるとは、只ミカンを味わえという事ではなくて、どういう御神意があるだろうかと、まず思うてみなきゃいけません。手間ひまいる事じゃありません。目の前にミカンが現れた。そのミカンを、只むいて食べるだけではなくて、これを二つに割って、言うならば合楽の信心をまず見なければね。合楽の信心はミカンを二つに切った菊の花のような模様が出てくるでしょ、模様になってるでしょ、あれを二つに切ると。だから、このミカンは合楽風にいうたら、神様は何を私に分かれと言いござるだろうかと、それを思うてみる位な慎重さが信心にはいります。
成り行きを尊ぶとか大事にするという事は、そういう事もあるのですね。そしてそのミカンを合楽の信心で言うならば頂く事になる時に、そこに教えられるものがあり、気ずかせて頂くものがあるという事なんですね。私は合楽の信心はね、そういうところにこの一つの興味を感じさせてもらえれる。そこに言うならば合楽で言われる信心が愉快だというのは、そういうところから生まれて来るのじゃないでしょうか、ね。
それこそ、白神先生じゃないけども、面白うというておられるが、面白かですね。今度の御本部参拝でも皆さんがそういう帰ってからでも、いろいろお届けをなさいました。もう本当に神様の働きの間違いない事。また会楽フアンの方があのあれだけ沢山のお参りしとる中には沢山ある事。あなた方は会楽ですか、と言うて会楽の信心を求められる方に出会ったといったような事の、その辺のタイミングという事の素晴らしい事に驚くばかりに、所謂御本部参拝の有り難さをひとしお有り難いものにして帰っておる方がいくらもあります。もう久留米の稲垣さんなんか、伊藤さんと一緒にもうあのう奥城に御礼して斎場に入った時にはもう一杯で座る余地がなかった。二階さんなと上がろうかと言いよるところへ、そこに二つ空いておったから、そこは空いとるですかと聞いたら空いちるとこう言われる。こう何かタオルケットのようなのを持って行っておられたから、そこに敷いて隣におられるお婆ちゃんに、どうぞこれをお敷き下さいと言うて敷いてもろて、そこは二人またそれから次から次から空いたから、四人か五人かで座られたそうですけども、あのうあなた方はどちらの御信者さんですかと、そのお婆ちゃんが聞かれる。私共は会楽ですがと、そうじゃろと思いましたて。私は伊万里の竹内の姉でございますというその人の横に座ったという。もう本当に信心が面白うてこたえんちいう感じですね。
あれだけの何万かの信者の中に、竹内の伊万里のお姉さん、伊万里の竹内のお姉さんと熊本におられます方がその横であった。その方にタオルケットを、どうぞお敷き下さいと言うたのが合楽であった。向こうも喜ばれりゃ本当にこうやって遅うなしてここに席を頂いたという事の中にも深い御神意のある事を悟らしてもらう。そういう事の中からでも御神意を悟ると有り難くなるだけではなくて愉快になってくるです。日常生活が豊かなものになってくるです。そして、いわゆる私がお夢に頂いた信心のないおばあちゃんでも初めの間は笑いござった、ね。それが実際いわゆる嫁達の話を聞いてみたりしてみるとなかなか素晴らしい。だから、来るお客さん毎にそれをね、進めてはいわゆる示現活動が出来ておられるというような働きになってきたらです、合楽の真価というものが、いよいよ広く私はおかげ頂いていけるというふうに思いますね。それをね、色メガネ的な見方というか、で見たんではやはり色がついてしか見えません。けども確かにそこに助かりの事実があるとするならば、ならどういうところから、どういうふうな手立てで合楽の人達が助かっておるかという所を言うならば検討して合楽の御理解を頂いたらね、本当に自分の探し求める宗教、信心がここにあったというような事になってくるだろうと思います。
それには、合楽に御神縁を頂いとる人達が、いよいよその実証をしていかなければいけませんね。それには先ず実験しなければいけません。実験が先ですね。そしてそこに現れてくる実証とね、それにはいつも神様を心につけさせて頂いて、これ一ついかがですかと出されたそのミカン一つの上にでも、はあ神様は私に何を分かれと言いよんなさるじゃろかと、剥いて食べるのを割って頂くというような心使いがいるんです。そこには菊の花、言うなら合楽の信心がそこにありありと感じられるのですね。そしてそこから一つのヒントを得て、言うならば愉快なリズムが生まれて来るのです。そういう信心を頂いていくならばですね、やはり自ずと伝わってもいこう、また伝えずにおれない事になってくるね。そういう時にですね、只心を広う持っておれという事は悪口を言わんでもよいから、合楽で言われておるのは、こういうなら因縁なら因縁、罪なら罪をもうその思い込んでおる人達にやっぱり教えていかなければならないという事ですね。
黙っておってよいという事ではない。自分の頂いておる信心、実験実証それを人に伝えていくというおかげ。それは決して言うならば宗旨嫌いをせんと教祖様がおっしゃっておられるね、それをま軽蔑したりどうこうと言う事はないけれども、それで助かっておられないとするならばね。こういう素晴らしい助かりの手立てがありますよと説いていくという事は必要ではないかと私は思うんです。
確かに教祖金光様が言われるように、この方のお広前は世界中であるぞと。世界は和賀心にあるぞと、教祖が言うておられるのです。だから、その信心を頂く者もです、やはり世界に目を向けなければいけない。その信心を頂いておる者が、先ず自分の手近なところから広げていこうという手立てをしていかなければですね。そういう宗教以前の宗教と言われる程しのお道の信心をです、只変わった事を言う、変わった宗教だと言うふうに合楽教といったような小さい信心にしてしまってはいけない。
合楽の信心そのものが、いわば金光教の信心の中に入って広まっていくね、それが言うならば海外布教という事になって日本人だけが対象ではない。合楽理念を持ってさえ行けばね、世界中のすみずみの人までが助かっていけれる内容を持っておるいう自覚がね、出来てくるのじゃないかと思うんです。
まあそれこそ夢のような、今私が話しておる事は話かも知れません。けれども先ず合楽に御神縁を頂いておる人達がですね、一歩ずつでも前進ね。例えば、少しづつでもそれを本当なものを本当として皆さんに分かってもらえれるそういう一つの使命感といったようなものがね、皆さんの一人一人の中に出来てくるようなおかげを頂いてもらいたいと思いますね。 どうぞ。